あまり出したいものではないですね。やあやあ。今日は七夕、僕の誕生日なのですよ。32歳になりました。憧れのヘキサでハタチ!(0x20歳)
5日前に父が他界したということもあり、少し考えるところがあったので、まとめてみようかなーと思います。

2010年7月2日、享年62歳、定年退職を迎えてから2年を待たずして、父はこの世を去った。少し、父の話をしようと思う。

父は岐阜の出身である。仏文学部を卒業し、某報道機関に就職。北海道に配属となり、記者として働き始めた。昭和50年、僕が生まれる3年前に母と結婚。昭和53年の今日、長男である僕を設ける。その4年後の冬、次男である弟を設けた。

仕事については、よい成果を挙げていたのではないかと思う。元々読書が大好きな人間だったこともあり、本人に向いていた仕事だったように思う。単身赴任で何度か転勤を繰り返し、最終的には札幌に戻ってきた。もっとも、普段は家庭のことを全くせずに仕事ばかりしていたため、母は不満たらたらであったが(母は偉いと思う実際)、子供たちとしては、お父さんが大好きなのであった。

ここに、一枚の写真がある。31年前の、僕と父である。

1978/10/07

僕を知る人なら笑えるのではなかろうか。父の性格は、そんなわけで、僕の性格と似ている。というより、僕が父に似ているのだけれど。僕をもっとワガママにして、自己中にして、外で遊ぶ趣味を失くし、麻雀や将棋といったボードゲームのセンスを大幅に増強し、競馬のようなバクチにハマる性格を加えると、概ね親父であると思ってもらって構わない。あれ、なんかすごいダメな人みたいだ。

父は、新しいものが好きだった。この辺は、皆さん承知の通り、僕がしっかり受け継いでいる。僕が小学生の頃にワープロを買ってきたのが僕のキーボードデビューだし、中一の僕のおねだりを一蹴せずに98ノート一式(30万コース)を買い与えてくれたりもした。いや、そりゃ確かに強烈におねだりしたのだが、それにしても今考えると、凄い投資をしてくれたものだなあ、と思う。このパソコンで、僕はCマガのLSI-C86に触れ、DOSのバッチファイルやN88BASICに触れ、Borland TurboC++を使い、最終的にはWindows3.0, 3.1, 95 まで使った。一太郎は3,4,5,6と使い、中能ワープロ1級を取った(全く役に立ってないけど)。正直、プログラミングなんて、この頃に勉強した知識からほとんど増えていないのもどうなんだ俺、ってところなんだけれど。とにかく、この13歳に対する投資は、当時としてはなかなか良い投資だったのではないかと思う。この点に関しては、本当に感謝している。

同じように、情報通信に関しても理解を示してくれたのも、とてもありがたかった。高校時代、順当に反抗期を迎えた僕は、アマチュア無線に飽き足らず、パソコン通信に手を出すようになる。当然電話代は無い。勝手に電話線を繋いで、パソ通を楽しんでいた。主に関東の草の根で遊んでいたこともあって、いくらオフ書きの努力をしたって、そりゃ電話代3万円は下らない訳で。そんな暴挙についても、両親は結局追認してくれた。甘いよねえ。でも、この頃いろんな人と知り合って、くだらない話をして(それこそ今で言うtwitterみたいなものです)、という経験は、情報通信そのものへの興味になり、95年ごろにはWindows3.1 + trumpet winsock + mosaic でwebを見る高校生、という構図になってゆく。その後当然unixを避ける訳に行かなくなるのは、もう説明するまでも無いだろう。そういえば、テレホーダイの頃に自宅に64Kbps専用線と/29のアドレス割当の費用も払ってくれてたんだよなあ。あれは主に本人が快適にネットを使いたかったからだと思うんだけど。

そんなわけで、今の僕は、当時のオヤジ殿の判断が無ければ、間違いなくなかった。まあ、安い投資では無かったとは思うんだけど、それなりに成果が上がっていると思うので、いい線ではないかと思う。少なくとも僕はとても感謝している。よし、持ちあげたぞ。

父は、一昨年の9月に定年退職を迎えた。その後、4ヶ月後の1月に、家族で仙台旅行に行ったりした。オヤジ殿の大好物であるカキを食べに、松島クルーズなどに乗るなどして楽しんだ。この時は実に楽しかった。ちょうどこのころ、僕もデジイチデビュー(D40)なんかしたりして、適当に写真も撮ったりとかね。

松島かき鍋クルーズ最高です

それから半年少し経った去年の秋に、ガンが発見された。投薬と放射線治療で一応の成果を得て冬には退院するも、半年も持たず今年の4月に再発。転移が発見された。父は、延命治療は望まない、という姿勢で一貫していたため、痛みだけ押さえる方針とし、自宅に戻り、6月下旬まで過ごしたが、いよいよ難しくなり6月25日に入院。それから1週間後の7月2日、最後は緩和ケア病棟にて、静かに息を引き取った。

幸いなことに、僕は死に目に間に合った。点滴すら拒否していた父は、穏やかにこの世を去って行った。きっと、本人はこの世でやり残したことはさほど無かったのではないかと思う。近年の趣味は、主にwebぐると競馬であった。良いのか悪いのか、これは僕には決められないことなのだけれども、仕事に誇りを持って、楽しんでいたのだと思う。仕事が最優先だった父なのだが、そんな父を少なくとも僕ら兄弟は、自慢にすら思っていたし、今もそう思っている。しかしなあ。僕が小学生の頃は、リタイアしたら俺がやるんだから、とかいって、ファミコンのカセット買ってくれてたんだけどなあ。結局やらずじまいだった。これでは、ただたんに僕が甘やかされていたみたいじゃないか。もし趣味らしい趣味があったら、第二の人生ってやつも楽しめたんじゃないかなあ、なんて思うと、幸せとは一体何だろう、と考えてしまうものがある。

父が他界してからはそれなりに大変だったのだが、それはまた別の記事にまとめたいと思う。端的に説明すると、母が喪主に、僕は施主としてのポジションで式を取り仕切った。明日、ようやく初七日を迎え、ひと段落付けられそうなところである。

僕と弟

ところで、父が永眠した翌日は友引であったため、通夜を控えますか、ということで翌日は仮通夜というものを行った。自宅にお寺さんに来て頂き、簡単にお経を読んで頂く感じのイベントで、近い親族が集合することと相成った。そこで「折角みんな集まるのだから飲みますか、父もその方が喜ぶでしょう」ということで親族の飲み会を企画したのだが、僕は乾杯の挨拶で

「父はまーあーゆー人間だし、特にやり残したことも無いだろうし、どうせ美味い物も食べれない状態だし、暑いし、もーいーわ痛いし、って事でさっくり逝ったような気がします。本人は満足してる幸せな人間だと思います。とゆーことで僕らはせいぜい楽しく飲んで、父には安心して逝ってもらいましょう」

ぐらいの趣旨のことを話したと思うのだけれども、通夜当日に母から渡された息子宛の遺言状を見て、すごく納得した。遺言の内容は以下の通りである。

二人の息子に

計算より10年ほど早まっちまったけど、ま、運命。自分の人生、こんなもんかと納得していて、何か不思議に平静な気持ちです。

母さんはあの通りの性格だから、母さんより長生きして、母さんを元気づけてやって欲しい。あまり息子の面倒を見なかった勝手な父の最後のお願いです。

元気で生き抜いてください。

’09/09/22

だいたい合ってた。オヤジはほぼ我の中にあり。うん、ノリまで予想通りである。ただ一点を除いては。

最後の一文に「元気で生き抜いてください。」と来るとは思わなかった。まるで、僕が考えている事は、過去に自分が通った道、と言わんばかりの一文じゃないか。何を目的に生きていくのか、とかまあ人並みに悩むだろうけど、それでもまあ何とかやっていけ、と。生き抜くとは、たぶんそういう事だと思う。しかし、そこまで言うなら、その先に何があるのかぐらい書いておいてくれよなあ、あなたは何を生きることに見つけていたのだろうか。「元気で」というのは何なんだろう。チェーンスモーカーのあなたが言う事なのだから、健康に気を遣えという意味ではあるまい。だとすると、うん。「後悔の無いように目いっぱいやってみれ、そのうちわかるだろうよ。」ぐらいの解釈と、僕はさせていただきたいと思う。

遺書にある通り、父は僕ら兄弟は基本放置していた。言葉で何かを伝えてくることはほとんど無かった。そんな父からの、最後の言いつけ、守らざるを得ないじゃないか。まったく、最後まで勝手なのが、彼らしいのだけれども。

父と僕

今年の夏は、ちょっと一人旅に出たいなあ、と思っている。父に依存した生活を送っていたつもりも無いのだが、僕にはいま、第二の成人の時期が来ているように感じる。第二の成人、と自分で言っていて、それが何を意味するのか今はまだ判らないのだけれども。例年だと、誕生日というやつは能天気に過ごしていたのだけれども、今年はそうも言っていられないようだ。

父は、62歳で他界した。31歳で僕を設け、31年かけて僕を育て、そして僕は今日32歳になった。つまり、父が僕の年齢の際には、僕はもう父の下にいたことになる。きっと僕は62歳ぐらいまでは生きるのだろうなあ、という気がしている。つまり、僕の人生は残り半分ぐらいなんじゃないか、という気がしている。まあ、経験することで言うともう8割ぐらい終わっているのだろうけれど。

32はキリのいい数字である。16進数にすると0x20歳、ヘキサでハタチ、というやつである。32歳は20歳+12年である。僕は、社会通念上の成人から、ちょうど一回りした。

さて、僕は一体どうするべきか。今は少し考えたい。もう一回り成人しないといけないような、そんな気がするのだ。

今年の僕の誕生日プレゼントは、ニコマートELという古い一眼レフカメラをオーバーホールすることにしようと思う。平たく言うと、遺品である。父が就職してすぐにローンを組んで購入したとかいう話だったと思う。彼の商売道具であり、宝物だったのだろう。僕は長男だけあって、結構写真を撮ってくれた。恐らく、このニコマートが楽しくて楽しくて仕方なかったのだろう。昔は、母の若いころのポートレートなんかも部屋に飾っていた気がする。以前は使いこなせなくて諦めたのだけれど、うん。僕もニコマートで大切なものを撮ってみよう。父のようには扱えないだろうけどね。

最後に一つだけ。同じような年齢の両親をお持ちの方は、ほんと、親孝行しといたほうがいいと思う。無理にでも何でもいいから兄弟を集めて、年に一回ぐらいは、近場で良いからどこかに行くとよいと思う。結局退職後に行った家族旅行が唯一の親孝行らしい親孝行になってしまったのだけれども、あの時は可哀そうに弟がなかなか無茶なスケジュールにはなった。それでも、今となっては、結果論だけれども、行って本当に良かったと、これは全員が思っている。仮に行っていなければ、何も孝行できなかったと、僕ら兄弟は自責の念に駆られていただろう。父自身も「あれは楽しかったなあ、また牡蠣食いたいねえ」とか闘病中に言っていたらしい。少しは楽しい思い出になって、上手くすれば最初のうちは病気と付き合う理由になっていたのではないかと思えるのは、僕にとって救いだ。まあね。ご両親の性格にもよるんだろうけど。夫婦水入らずが一番、なら、それはそれで旅行券でも贈ってあげると良いのではないだろうか。さあ、今すぐHISでも楽天トラベルでも確認するんだ。今すぐだ。病気だ、って判ってからじゃ、何もできないよ。

R.I.P. お父さん。ありがとね、おつかれさまでした。

Written by bokusama in: 日記 | タグ: , ,

2 Comments »

  • 矢部善之 より:

    全文拝見させて頂きました。
    大切な人が他界してとても寂しいはずなのに、とっても心温まる想いでした。

    実は「かき鍋クルーズ」と検索していたらこのページにたどり着きました。
    僕は沢田さんが乗船されました「かき鍋クルーズ」を運航しております丸文松島汽船の矢部と申します。

    お父様は「かき鍋クルーズ」喜んで頂いてましたでしょうか?

    僕も29才の時に父親を交通事故で亡くし、母親を36才の時にガンで亡くしました。
    残念な事に、両親とも最期を看取る事が出来ませんでした。

    大切な家族を亡くす事程、切ない事はないですね・・・。
    そんな訳で、互いに「元気に生き抜きましょうね」

    こんなコメントですみません。

  • bokusama より:

    矢部さん、こんにちは。
    わざわざコメントを頂きありがとうございます!

    実は父はカキフライが大好物でして、それはもう大変な喜びようでした。あの旅行一番のハイライトだったかもしれません(笑)
    僕自身も初めての乗船でして、いいものだと伺ってはいたのですが、予想を超える充実ぶりに驚いたことを覚えています。
    カキフライも最高でしたが、食べても食べてもカキが出てくる鍋が素晴らしかったです。
    ただ・・・残念なことに、食べるのに夢中になってしまい、肝心の?松島観光があまり記憶に無く・・・(笑)
    またいつかお伺いしなければならないと考えています。

    人の生死はどうにもならないことなので、楽しい時間を積んでおきたいな、と思います。
    こうして楽しい思い出として振り替えれるのはとてもありがたいことですね。
    その節は大変お世話になりました!

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